今頃になって川端康成を読む

3月は川端康成の小説をいくつか読んだ。
きっかけは、図書館で目にした石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』。
そのなかに、次のようなことが書いてあった。

あるとき、三島と石原の間で「最近の川端作品のなかで何が好きか」という話題になった。
「みずうみ」と答えた石原に対し三島は、あの小説は破綻していてドロドロしていると嫌悪感を示したという。
三島が好きだったのは「千羽鶴」だった。
しばらくして、石原が川端本人に何が好きか聞いてみたところ、石原同様に「みずうみ」が気に入っているということだった。
そのことを石原が三島に伝えると、三島が不安そうな顔になった、という話。

三島が不安になったとしたら、たぶん、川端先生のことは自分がいちばん深く理解しているという自負心が傷つけられたからだろう。
ともあれ、僕は「雪国」以外は読んだことがなかったので、そのふたつが気になって、すぐに「みずうみ」と「千羽鶴」を読み比べてみた。

結論からいうと、僕は「千羽鶴」のほうが好きだ。
両作品ともに明らかに未完だが、おなじ未完でも、「千羽鶴」のほうが完結性は高い。
「みずうみ」の中途半端さが、どうにも許せない。
でも、もし「みずうみ」がもっと続いていて、宮子と有田老人のほうの話もさらにふくらんでいっていれば、「みずうみ」のほうが本格的な小説となっていたような気もする。
話自体は「みずうみ」のほうが複雑で厚みがある。
それに、過去の様々な時間と現在の時間とがきれいに交錯しながら流れていく「みずうみ」の文体はとても美しい。

このふたつから始まって、その後、「雪国」、「山の音」、「伊豆の踊子」、「眠れる美女」と、続けて長編を読んだ。
これはブクログのなかの各レビューでも書いているのだが、川端康成がその美しい日本語で紡ぎ出しているのは、繊細な日本の美だけではありません。
洗練されたエロスが、あちこちの行間から漂っています。
とくに、女性の奥底にある「女」としての表現が見事だなと思う。
なかでも、「みずうみ」の久子、「山の音」の菊子、「千羽鶴」の文子、そして「雪国」の駒子の描き方が気に入った。
ほんの一文で、またはたった一言で、彼女たちのなかの「女」を彷彿とさせるくだりに必ず出合った。

今頃になって川端康成を知り始めるというのも恥ずかしい限りだが、三島つながりでいくとそこに必然性もあるわけで。
今度は短編を読んでみなきゃ。


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